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STORY 1 from Japan : 4年間の息苦しい生活からの開放

患者様の体験談

STORY1 4年間の息苦しい生活からの開放 野崎 辰雄さん

野崎辰雄さんは現在78歳で、日本心臓ペースメーカー友の会の副会長、ならびに千葉県支部長を務めていらっしゃいます。奇数月に発行される日本心臓ペースメーカー友の会の機関紙「かていてる」の編集の山場を越え、少しほっとされている野崎さんにお話を伺いました。

野崎さんは、子供のころから水泳が得意で、20代のときは江ノ島を泳いで1周することに果敢にトライしました。何年目かの挑戦で波をうまく捕らえることに成功し、見事に1周することができました。そんな挑戦意欲が豊富な野崎さんは58歳のとき、会社の水泳大会への参加を表明しました。「本当に泳げるんですか?」という、部下の冷やかしをよそに、参加した若手社員を下して堂々の一位となりました。
仕事は技術開発が専門で、主に設計に携わっていました。世に送り出した製品は、エアバッグやカメラ、電子計測器、検査機、車の電装品など、多岐に渡りました。会社を定年退職した後も技術設計を請け負い、自宅や発注元の会社で仕事をしていました。
そんな日常生活の中で、ある日野崎さんの体に、今までにない変化が訪れました。今から10年ほど前の68歳のころでした。その日、野崎さんは仕事に必要な専門書やカタログを手に入れながら、最終的に約7kgにもなった荷物を持って秋葉原を歩いていました。
「東京駅から電車に乗って秋葉原で降りて、電気街に行って色んなパソコンだとかのソフトを買って、カタログをもらって、秋葉原の駅で階段を上がったら、そこで倒れたんですよ。真っ白になって。それが始まりなんですね。転げ落ちたりはなかったんですけど、階段上がって2、3歩歩いて「ふっ」と。それが、2、3分したら治ったんですよね。それで歩いてっても大丈夫かなと思って。今度は上野の駅に来て・・・駅の階段上がったら、また上がり終わって2、3歩歩いたら、またこうきたんですよ。それからね、常磐線に乗って帰ってきて、松戸の駅に同じ階段があったんですけど、ここの駅でもなったんですよ。そのあと家がね、ちょっと坂なんですけどね。高さにしたら2mくらいの長さ20mくらいの坂なんですよ。そこをね、歩いて上がって、玄関に入ったとたんに倒れたんですよ。」
たまりかねた野崎さんは翌日市内の総合病院に駆け込みました。しかし、その病院で下された診断は単に「高血圧」でした。血圧の薬だけが処方されました。
「その当時、階段上がるとき、息苦しかったけど、これ、年取ったんだからしょうがないかなと。荷物を持って、お客さんとこ行くと階段が辛くてね…」
それから4年後、市の老人健診で「完全房室ブロック(心房と心室の間の伝導が完全に途絶えたもの)で今すぐにでもペースメーカーが必要」と診断され、その2日後にはセント・ジュード・メディカル社製のペースメーカーが植え込まれました。
それからしばらくは植込まれたペースメーカーの存在が気になりましたが、階段を上るときの息苦しさから開放され、今は毎日適度な運動を行い、快適な生活を送っています。

野崎さんは、日本心臓ペースメーカー友の会全体の運営ばかりでなく、千葉県支部や支部会をまとめ、会報の「かていてる千葉」の発行に意欲的に取り組まれています。また、ペースメーカー患者様と医師との架け橋的な役割を果たされています。野崎さんは、支部勉強会での「患者様の体験談の発表とそれに対する医師との意見交換」を最初に企画され、今ではそれが定着しています。
「ああいう勉強会をやっているとね、『ああ、私よりもすごい人がいるんだ!』とか『これは大したことがないんだ。』とかね、そういうのが間接的に…というか、自分で聞かなくても周りの人の話を聞いているとわかるんですよね。それですごく安心する。そういう人が結構いるんですよね。あそこ行ってしゃべるってのは相当勇気がいる。だからね、影でもって喜んでて、後でこっそり聞きに来るとか、そういう人がいるんです。そういう人が大事なんですよね。」
人一倍、自分の体のこと、ペースメーカーのことを学ばれ、その必要性を他の患者様にお伝えしたいと取り組まれている野崎さんにお会いすることができ、聞き手の私も患者様に役に立つ情報をお伝えしたいという思いをますます強く持つようになりました。

(2009年現在)